暴力には中毒性があるから誰であってもコントロールは無理。

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山口県下関市の知的障害者福祉施設での虐待事件がかなりマスコミで騒がれています。

私も朝のニュース等で、実際に職員が利用者の顔を平手打ちしている映像を見てかなり不快な気分になりました。

逮捕された容疑者は「作業をしようとしないのでやった」と言っているそうですが、多分本人からすればしつけの一環のような感覚だったのでしょう。

ただ、映像を見る限り3連発で平手打ちしていたり胸倉つかんだりと、明らかに行き過ぎています。

一連の虐待映像を見て、なぜ他の職員が目の前のこうした暴力行為を止めようとしなかったのか、疑問が浮かびました。

しかし他の職員も利用者に「バカ」とか「殺すぞ」と暴言を吐いていたそうなので、逮捕された容疑者だけが悪いのではなく、この施設全体が利用者を虐待していたのでしょう。

まあ、起こるべくして起きた事件と言えます。

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しつけだろうが何だろうが不快な暴力に変わりない。

よく、子供やこういった障害者、お年寄りを虐待する動機に「言うことをきかないから」「しつけのため」といったものがあります。

つまり、虐待している本人からすればあくまで「しつけ」もしくは「注意」であって「暴力行為」ではないと考えるのです。

しかし、暴力には中毒性があるのです。

最初は本当にしつけのつもりで軽くたたいたりしていても、徐々に暴力の中毒性にとりつかれしつけという名の暴力行為がエスカレートしていくのです。

中毒性がある以上、アルコールや薬物と一緒で自らそれが暴力行為であることが理解できないのですし、自分から辞めることはできません。

ただ、本人がいくら正当なしつけの一環だと思っていても、第三者の目から見れば単に他人に暴力をふるっているようにしか見えないのです。

だから利用者を複数回平手打ちしたり、胸倉をつかんでいる映像を見ると大変不快になるのです。

中学時代の不快な思い出話

私は中学生時代に、途中で退部したのですが野球部に所属していました。約10年ちょっと前の話です。

当時野球部の顧問をしていた先生はノック中、ミスをする生徒を近くに呼んで怒鳴り散らしながら軟式球を至近距離からぶつけるということをやっていました。

軟式球を生徒にぶつけている先生も、ぶつけられている生徒もそれを虐待とか単なる暴力行為だとは思っていないようでした。

しかし、そばで当時1年生としてノックのボール出しをしながら近くでその光景を見るのは私にとって大変不快なものでした。

私は理由がどうあれ先生が生徒に至近距離からボールをぶつけることに何の意味があるのか、心底わかりませんでした。

大人になった今でもわかりません。

実際、ノックで選手がミスしてるだけですしね。それくらいでなんで軟式球ぶつけられないといけないのかと。

ただ、周囲の人はなぜかそういった暴力行為をする先生の事をかなり肯定的に見ていて、そういった一連の暴力行為を「愛のムチ」などと表現してたたえていたのです。

不思議なもので生徒に手を挙げる先生って非難されるどころか、むしろ称賛されることのほうが多いんですよね。

だから暴力を振るっている側もこれはやっていい暴力なんだ、私は正しいことをしているのだと理解する、そしてまた暴力行為が行われるという負のスパイラルに陥ります。

私からすれば、暴力に良いとか悪いとか線引きすることはできない、すべて悪だと考えています。

生徒に軟式球をぶつけていた先生も生徒に痛い目見せてやろうとか、暴力ふるってやろうとか思ってやってたわけではないと思います。

しかし、野球部の顧問であっても暴力の中毒性からは逃れられないので知らないうちに、それが習慣化してエスカレートするのです。

いっそ一律に暴力は悪なのだと考えないと、場合によっては他人に手を挙げてもいいなんていう例外を作るとすぐにそれは拡大解釈され、暴力の連鎖が始まってしまいます。

子供や老人施設などでの虐待事件が絶えないのも結局、場合によっては暴力も肯定されるのでは?という考えを皆少なからず持っているからでしょう。

そういった考えを持っているからたとえ目の前で暴力行為が行われていても、止めにも入らないし注意もしないのです。本人たちにしかわからないことがあるかもしれないと。

そんなものありませんから。大義名分はどうあれ暴力は暴力ですから。

暴力をふるう人間が悪いのはもちろんですが、変に理解したつもりになって止めに入らない、注意しないのはそれと同等か、それ以上の大罪であるということを意識しないといけないのではないでしょうか。